「死というのは誰にでもくる。人様のお役に立てれば、これも恩返しや。母さんも一緒に登録する。自分の体を医学に捧げるんは、尊いことや。バンクを作ったのも、賢一が命を懸けてやったことや。きっと誰かが助かる。誇りを持って死んでゆける」

息子はじっと話を聞くと、笑って同意してくれました。このとき私は、息子が入院前に必死で作った大壺を焼こうと思いました。息子が作った最後の壺を、信楽自然釉で残したいと思ったんです。それから弟子の力を借りながら、2週間ほど火を絶やさず、名古屋の病院と信楽の窯を往き来しました。最後の3日間は窯に詰めて、息子の顔を見なかった。

焼き上げた翌日、病院へ抱えて行きました。壺を持つような体力はなかったけれど、息子はうれしそうだった。賢一は目から出血していたので、赤い涙を流して……。私もそのときは涙をこらえられなかったね。

それから1ヵ月ほどした92年の4月、賢一は永眠しました。死の間際、私は背中をさすり続けて、ねんねんころりよ……と歌いました。まだ赤ん坊だったあの子に聞かせていた、なつかしい子守唄です。

あれから27年が経ちました。私は83歳になって、今も信楽の里で土をこねている。私が30代の頃、陶芸の心を学んだ師匠・八木一夫先生に言われた「すべてのものには天に昇る力がある。壺もそうや。空へ向かっていく形やないと!」という言葉がいつも胸にあります。

私には作陶しかないんです。どんなことがあろうと、火と土が私の人生を支えてくれた。私をここまで生きさせてくれたんです。

これから私は「神山塾」というものをやりたい、そんな夢を持っています。老若男女、誰が来てもいい。“志”を持って作陶したい、そういう人たちの力になれたらと。