1976年、NHKの『新日本紀行』で、私の見出した「信楽自然釉」を取り上げてくれて、女の窯焚きがいると全国に知れ渡りました。国内だけでなく、アメリカやスペインでも個展が開かれるようになった。
けれども生活は相変わらず貧乏。あのころは、全国から来た弟子が、住み込みで6人ぐらいおりまして、「動物に食べさせる」と言って、晩のおかずにパンの切れ端をもらってきたり。
自分の子たちがお腹をすかせてるのに、何やかやと皆の面倒をみてしまうところは、結局、父と同じやないかと思ったもんです。
白血病と告げられ震えが止まらなかった
長男の賢一は、私の背中を見て育ったせいか、工業高校の窯業科で釉薬の研究をして、卒業後は私と同じ陶芸の世界に入りました。嬉しいというか、その道しかないやろうな、と思いましたよ。賢一は中国伝承の「天目茶碗」の制作を始めたんですが、1990年、29歳の冬、突然倒れてしまった。
地元の病院に行くと精密検査を受けるように言われて、嫌な予感がしたんです。お医者さんに告げられた病名は、慢性骨髄性白血病。2日後には大津の赤十字病院に転院して、詳しい説明を受けました。血液のがんで、救うには白血球の型(HLA)が合う、健康な提供者の骨髄液を移植してもらうしかない、他人と型が合う確率は数万人に1人。
なんでうちの子がと、震えが止まらんかった。先生からは「今のところ助かる見込みがない病気で、発病して2年半で皆、亡くなってる」と、息子のいるところでハッキリ言われました。
なんとかして助ける道はないものか、と白血病について書かれた本をとことん読んで、海外にある「骨髄バンク」というものが日本にはないと知りました。