21歳のときに、同じ部署にいた男性と結婚しました。翌年に長女、その3年後に長男が生まれ、27歳で退社したんです。戦後のめざましい復興で、どんどん電化製品が作られて、もう火鉢は必要とされなくなっていた。信楽焼の名物、狸の置物を作る手伝いもしたけれど、私の理想とは違っていた。

私は“作家”というものを意識し始めていたんですね。注文されたものでなく、自分の世界を表現したくなった。とはいえ、どう道を切り拓いたらいいのかわからんから、悶々としていました。

 

自分にしかできない焼き物を作らなければ

あれは私が会社を辞めたばかりの頃。突破口となったのは、子どもたちの泥団子遊びでした。この団子で大皿を作って焼いたら面白いと思ったのです。信楽焼といえば、狸の置物や火鉢が代表的だったけど、身近な食器を作ってみてもいいじゃないか。そう思って、知り合いの窯で焼いてもらったら味のある小紋様皿ができて、これが私の作陶の第一歩となりました。

その皿を方々の店が10個、20個と注文してくれた。本格的にやってみようかと思い、30万円の電気窯を月1万円の月賦で買ったんです。勧められて応募した陶芸家の登龍門といわれる朝日陶芸展で入選し、私の名前はいっきに広まりました。

当時、私は30歳。まだ女の陶芸家というものがいなかったし、女が窯に入ると穢れるとさえ言われた時代だったので、ずいぶん嫌がらせも受けたんです。だけど、へこたれてなどいられん、そう思いました。

全身で力をこめて土をこねていると、手ごたえを感じた。土が呼吸してる、土が生きてるという実感がありました。そして、私の魂に火がついたんです。しだいに陶芸家として道を極めたいと思うようになっていきました。そのためには、神山清子にしかできない焼き物を作らなければ。そうでなければ作る意味がない。