飯坂温泉
仙台への疎開をあきらめると、今度は福島へ向かった。
福島駅に降り立つと、通りがかりの人に「このへんで疎開できそうなところはありませんか」と尋(たず)ねてまわった。
「それなら飯坂温泉(いいざかおんせん)がいいべな」と教えられ、バスに揺(ゆ)られて飯坂温泉に到着(とうちゃく)した。
飯坂温泉に温泉客など一人もいなかった。トットが足の治療(ちりょう)のために湯河原温泉で過ごしたときは、町のいろんなところから湯気が出ていて、大人も子どももポカポカ上気(じょうき)した顔をしていて、とても活気があった。
湯河原とのあまりの違(ちが)いにびっくりしたけど、考えてみればそのころは、戦況(せんきょう)もかなり悪化していたので、呑気(のんき)に温泉にやってくる人なんて、いなかったのだろう。
何軒(なんけん)かの旅館をまわって、疎開先を探していることを伝えると、ある旅館のおじさんが「うちの旅館のひと部屋を貸してやっぺい」と請(う)けあってくれた。
ママはほっとしたように「よかったわねえ」と言って、トットの手を握(にぎ)った。でもそのとき、トットの目はあるものに釘(くぎ)づけになっていた。
親切なおじさんがはいている、ズボンともパンツともつかない、うすい小豆色(あずきいろ)のだらんとしたものはなんだろう? トットたちがはく、ブルマーの長いのみたい。
そのおじさんは夕涼(ゆうすず)みの最中だったのか、団扇(うちわ)をパタパタとあおぎながら立っていたけど、その長いブルマーをはいている姿が、二本足で立ち上がった動物園の動物みたいに見えた。
トットは好奇心(こうきしん)を抑(おさ)えられなくなってしまった。
「ママ、あのおじさまが、はいているのはなに?」
「あれは、サルマタというのよ」
ママが小声で教えてくれた。
トットは「本当だ! おじさんの足、サルみたい」と笑ってしまいそうになった。
いまにして思えば、大人にしては少しだらしない格好だったけど、トットは「サルマタ」という響(ひび)きが気に入ったし、この温泉に疎開したら、東京とはまた違う楽しい人たちや、きれいな自然や、はじめて見る動物たちとも触(ふ)れあえるかもしれないと思った。