「菅原道真の祟り」

醍醐天皇の治世後半は恐ろしい時代でした。

『謎の平安前期―桓武天皇から『源氏物語』誕生までの200年』(著:榎村寛之/中公新書)

まず東宮(皇太子)の第二皇子保明親王が、延喜二三年(923)に若くして亡くなります。

代わって東宮(皇太孫)になった長男慶頼王も5歳で亡くなり、醍醐の第十一皇子がわずか4歳で新東宮に。これが朱雀天皇です。

保明と朱雀の母は藤原穏子。関白藤原基経の娘で、醍醐朝初期の権力者・左大臣藤原時平の妹でした。

そしてこれらの事件は、醍醐天皇を右大臣として支えながら、昌泰四年(901)に時平によって大宰府に左遷され、悲憤の末に死去した「菅原道真の祟り」と信じられたのです。

そのため東宮は、外にも出さずに育てられます。しかし延長八年(930)に内裏に落雷があり、醍醐自身はショックで亡くなり、朱雀が8歳で即位することになりました。

朱雀朝最初の斎王は異母姉の雅子内親王でしたが、伊勢に赴いて二年余で母が亡くなって交替。代わった姉妹の斉子内親王も、すぐに重病で退任して亡くなりました。

そして承平六年(936)、徽子に回ってくるはずのない「斎王」という大役が降ってきたのです。