8歳で「未完成の斎王」となった徽子女王

徽子の母は、朱雀天皇の摂政・藤原忠平の娘の寛子です。

「三十六歌仙絵巻断簡」より斎宮女御(冷泉為恭模写。江戸時代。斎宮歴史博物館蔵)

忠平は時平の弟で穏子の兄。バランス感覚に優れ、醍醐朝の政治を主導してきました。

醍醐の多くの皇子の中で、忠平の娘を妻にできたのは保明・重明親王のみ。徽子は天皇とも摂関家とも関係の深い、高貴な血筋の皇孫だったのです。

道真の怨霊への恐怖の中、前任者が急死した斎王への抜擢。名誉ではありますが、過酷な大任でもありました。この時徽子女王8歳。

徽子の旅立ちは天慶元年(938)年のこと。しかしその日、朱雀天皇は物忌(ものいみ)で、対面できず、天皇から黄楊の櫛を額に挿される「別れの櫛」の儀式も、摂政の忠平が代行しました。

これは天皇から祭祀を委託される重要な儀式なので、徽子はいわば「未完成の斎王」として斎宮に送られたのです。