勤続年数に応じた年功序列の世界

このように職階は、概ね勤続年数に応じた年功序列で上昇した。表2に、安政3年(1856)11月時点の大坂両替店の奉公人を示した。

『三井大坂両替店――銀行業の先駆け、その技術と挑戦』(中公新書)より

これをみると、元〆(もとじめ)の福田万右衛門(ふくだまんえもん)と勘定名代の石島保右衛門(いしじまやすえもん)が重役として通勤し、経営の中枢を担ったこと、石井与三次郎(いしいよそじろう)・吹田四郎兵衛(すいたしろべえ)が支配として店を統括したことがわかる(原則、店表の奉公人は店内で苗字を名乗っていた)。

しかも役づきは、全員10歳前後から入店し、勤続してきた子飼いの奉公人であった。もちろん、平・初元もその例に漏れない。

一方、佐田半七(さだはんしち)は子飼いではなく、元服後の26歳で中途採用された中年者(ちゅうねんもの)だ。山尾周五郎(やまおしゅうごろう)は、40歳で中途採用され、天保3年(1832)から嘉永4年(1851)まで勤務し一時退店したが、すぐに再勤した。表2をみると、彼らは、営業部門とは異なる「書方」に属したことがわかる。

京都呉服店の場合、中年者は基本的に「書札方」に属し、書類・帳簿の作成と子供への教育を担当したというから、佐田と山尾も、これらを担当できる技能の持ち主として中途採用されたとみてよい。

吹田勘十郎(かんじゅうろう)については不明な点が多いが、臨時的な雇用として、大坂両替店が管理した家屋敷や新田を見回る役目を担ったと思われる。1850年代半ばには地震が各地で発生したから、この雇用は地震被害への対応であったかもしれない。