奉公人たちの食生活
大坂両替店の食生活についても確認しておく。宝暦2年(1752)2月、両替店の元〆たちが定めた掟書によると、朝夕の食事は一汁一菜であり、毎月1日と15日には必ず生魚が提供された。生魚はこの日だけに限定したわけではなく、魚が安価なときや暑寒が厳しいときには、生魚を提供すべきことが記されている。
毎月1日と15日は月例集会の日でもあり、この集会の場では飲酒が許されたようだ。このほか、正月の三が日と15日、大晦日、五節句の日には一汁二菜、神事や祭事などの日には一汁三菜、酒三献、吸い物などが提供された。
大坂両替店は半季ごとに「賄方入目目録(まかないかたいりめもくろく)」という帳面を作成しており、これには生活必需品の購入費や奉公人への給料が記録されている。
安政3年12月時点の「賄方入目目録」によると、白米一九石(こく)一斗(と)四升(しょう)(一石が約180.39リットルで、約3453リットルに相当)が購入されていた。1日に三合(ごう)九勺(しゃく)一才(さい)余(飯茶碗6.6杯)を食べる計算で、奉公人の数よりもやや多めの30人分が計上されている。
このほかにも、大豆、麹、醤油、酒、酢、塩、魚、青物もの(野菜)などが購入されており、店内では、大豆と麹から味噌が作られていたようだ。実際、前掲図13には「塩味噌部屋」がみえる。購入額は、白米、魚、青物の順に多かった。
1日に飯茶碗6.6杯というのは、江戸時代では平均的な摂取量である。しかし、醤油や味噌、塩が用いられ、新鮮な魚や青物が並ぶ食事は、当時としては悪くない水準の食生活であったはずだ。当然、これら生活費は大坂両替店が負担した。
※本稿は、『三井大坂両替店――銀行業の先駆け、その技術と挑戦』(中公新書)の一部を再編集したものです
『三井大坂両替店――銀行業の先駆け、その技術と挑戦』(著:萬代 悠/中公新書)
元禄4年(1691)に三井高利が開設した三井大坂両替店。元の業務は江戸幕府に委託された送金だったが、その役得を活かし民間相手の金貸しとして栄えた。本書は、三井に残された膨大な史料から信用調査の技術と、当時の法制度を利用した工夫を読み解く。そこで明らかになるのは三井の経営手法のみならず、当時の社会風俗や人々の倫理観だ。三井はいかにして日本初の民間銀行創業へとつながる繁栄を築いたのか。