南部本家との骨肉の争い

そんな政実さんが“反乱”を起こすキッカケとなったのが、南部本家の御家騒動です。

南部家の24代目にあたる南部晴政には実子がなかったため、従兄弟にあたる南部信直を娘と結婚させて養子に迎え、後継者に指名していました。

『どんマイナー武将伝説』(著:長谷川ヨシテル/柏書房)

ところが、1570年(元亀元)になって南部晴政に実の子(南部晴継)が生まれると、南部晴政は息子を溺愛。その3年後に南部信直に嫁いでいた娘が亡くなると晴政と信直の関係は一気に悪化。

実の子どもに南部家を継がせたいと思った南部晴政は、南部信直を遠ざけるようになり、『八戸家伝記』(元禄年間〈1688〜1704〉成立)によると自ら兵を率いて南部信直を襲撃して殺そうとしたそうです。

そのため、南部信直は自身の危険を感じて、後継者を辞退して領地だった田子(たっこ。青森県田子町)に退いています。

これで御家騒動は収束しそうな気もしますが、1582年(天正10)年に南部晴政が死去して、息子の南部晴継が跡を継いだ直後に問題は再燃。

『公国史』(江戸時代後期の盛岡藩の記録集)などによると、なんと南部晴継は父の葬儀を終えたその帰り道に、何者かに襲撃され暗殺されてしまったというのです。黒幕に政実さんを疑う人が多かったようですが、南部信直も間違いなく怪しいです。

こうして、再び後継者問題が勃発。元後継者だった南部信直に対して、政実さんは自らの弟の九戸実親(さねちか)を推します(史料によっては、政実さん自身が南部本家を継ごうとしたとも)。実は弟の九戸実親も、南部本家から正室を迎えていたんです。

政実さんを支持する南部家の重臣が多かったものの、南部信直を推す北信愛(きたのぶちか。こちらも南部家の分家)の大演説に押し切られて敗北。半ば強引に南部信直が継ぐこととなりました。

この一件に不満を抱いた政実さんは南部本家との対立を深めていき、出陣命令が出ても病気と称して出陣しなかったりと、両者の関係性は悪化の一途を辿りました。

そんな中、1590年(天正18)に「小田原攻め」が起きます。

秀吉は東北の大名たちにも参陣するように命令を出すと、以前から豊臣政権と連絡を取っていた南部信直は秀吉のもとに参陣。戦後に行われた「奥州仕置(おうしゅうしおき)」によって東北の大名たちの領地の配分や改易などが決められ、いわゆる「太閤検地」も行われました。

すると、これに反発した勢力が一斉蜂起。「葛西・大崎一揆」や「和賀(わが)・稗貫(ひえぬき)一揆」などが立て続けに勃発します。南部信直は新たに与えられた領地で発生した一揆の鎮圧に奔走。そのタイミングを狙って、政実さんが動きます。

翌1591年(天正19)の正月、南部本家への年賀の挨拶を、また病気と称して欠席して、本家との決別を表明。南部信直が一揆に翻弄されている間に味方を募って戦の準備を進め、3月に挙兵します。こうして「九戸政実の乱」が勃発します。