「城中に鉄砲の名手がいるようだ」

兵数に物をいわせて切岸(きりぎし。人工的に削った崖)を登ろうとする秀吉軍に対して弓矢と鉄砲を散々に撃ちまくって、傷を負うことなく敵を撃退。城兵たちはまったく弱気になる気配はありませんでした。

この戦況を見た蒲生氏郷は、「城中に鉄砲の名手がいるようだ」と家臣を呼んで、唐傘(からかさ)を開いて立てさせます。

そして、九戸城に向かって、「源平の合戦では扇子を的に立てたそうだが、今は唐傘を的に立てようと思う。われこそはという者はこれを撃ってみろ」と叫ぶと、九戸城にいた工藤右馬之助(くどううまのすけ。兼綱)という者が名乗りを上げ、100間(約181メートル)ほど離れた唐傘を見事に撃ち抜いて、両軍から大喝采を浴びたといいます。

ちなみに当時の政実さんの姿は、萌黄(もえぎ。黄色みを帯びた緑)の直垂(ひたたれ)に、緋威(ひおどし)の鎧(緋色の糸を使った甲冑)、龍頭(りゅうず)の前立てが付いた兜を被り、“鷲の子”と呼ばれていた3尺5寸(約106センチ)の太刀を身に付け、葦毛(灰色の毛)の馬に乗っていたんだそうです。めっちゃ、カッコよかったでしょうね!

さて、政実さんと城兵だけでなく、政実さんが改築した九戸城も防御力に長けた城郭でした。

三方を川(猫淵川、白鳥川、馬淵川)に囲まれた天然の要害で、切岸はまるで巨大な屏風のように広がり、堀は深くて土塁は高く、頑丈に造られた塀には狭間(さま)を数多く設置して、その上に櫓を構えていたそうです。

『南部根元記』では、「たとえ数千万の軍勢が攻めても、たやすくは落とせないだろう」と“盛り気味”に絶賛されています。さぁ、難攻不落の九戸城を前にどうする秀吉軍!