秀吉軍が城を包囲! どうする政実?

本家をしのぐ力を持っていた政実さんに味方する勢力はかなり多く、南部信直は鎮圧どころか防戦一方。中にはこっそりと政実さんに通じていて寝返る者もいたため、南部信直は滅亡してもおかしくない状況へと追い込まれていきました。

しかし、ここでラスボスが登場します。豊臣秀吉です。

大ピンチとなった南部信直は、自分だけの力では政実さんに勝てないと考え、京都に使者を送って天下人の秀吉を頼ったのです。

東北で反乱が連発していたこともあり、秀吉はすぐさま鎮圧軍の派遣を決定します。

鎮圧軍は豊臣秀次(秀吉の甥)を総大将として、伊達政宗や徳川家康、前田利家、石田三成や大谷吉継など名だたる武将たちが名を連ねています。

6月には各方面から一揆勢の鎮圧が始まり、8月までには「葛西・大崎一揆」と「和賀・稗貫一揆」も鎮められ、ついに九戸城に秀吉軍が迫ります。

9月1日には九戸方の前線拠点である根反(ねそり)城と姉帯(あねたい)城(ともに岩手県一戸町)が秀吉軍の猛攻にあって落城。翌2日に総勢6万5千といわれる秀吉の大軍が九戸城を包囲しました。

この九戸城の攻防戦については『南部根元記』(元禄年間以前に成立)や『九戸軍談記』(1819年〈文政2〉成立)などの軍記物で詳しく描かれています。

それらによると九戸城を攻めた武将には、政実さんの天敵である南部信直をはじめとした津軽為信(つがるためのぶ)や秋田実季(あきたさねすえ)などの東北勢、蝦夷(えぞ。北海道)の松前慶広(まつまえよしひろ)、さらに秀吉の家臣である蒲生氏郷(がもううじさと)や堀尾吉晴(ほりおよしはる)、浅野長政(あさのながまさ)、それに加えて家康家臣の井伊直政(いいなおまさ)という面々だったそうです。

それに対して、九戸城の城兵はわずか5千ほど。それでも九戸城の士気は高く、政実さんは各防衛口に回って細かく指示を出したそうで、秀吉軍が鬨(とき)の声を上げて弓矢や鉄砲、大砲などを撃ち掛けてきても城兵たちは怯むことなく応戦します。