秀吉の“騙し討ち”に散る

秀吉軍は九戸城のことを“小城”と侮っていたようですが、政実さんの戦術を前に大苦戦。力攻めをして落とそうとしても、ただ無駄に兵を失っていくばかりです。それに加えて、秀吉軍が大軍すぎて兵糧が不足するという事態に陥ってしまいます。

そこで浅野長政は「政実をすかして(騙して)」九戸城を落とす策略を提案、実行に移します。

(写真提供:Photo AC)

秀吉軍は政実さんの菩提寺である長興寺(ちょうこうじ。九戸村)の僧・薩天(さつてん)を呼び出して、政実さん宛ての書状を渡して開城の交渉役を命じます。その書状には次のようなことが書いてありました。

「大軍を引き受けて籠城を堅固にして守り抜き、天下を敵にして戦い、本懐は達せられたでしょうか。もう本丸を追い崩して、城兵の首をすべて刎(は)ねるところまできています。願わくは、政実は早く降参して、天下に逆心がないことを申し開くべきでしょう。そうすれば一門や家臣まで、命は助けられ、かつ武勇の噂が(秀吉の)耳に届けば、その武功を褒められて、かえって領地を与えられるかもしれません」

なんとも臭う内容ですね。

弟の九戸実親は、「降参はせずに城を枕に討死すべし」と兄を説得しますが、政実さんは「一命をもって衆の命を替えるは武士の本意である」と、城に籠った者をひとりでも多く救うために降参を受け入れて、自分の命を差し出しました。

そして、剃髪をした政実さんは9月4日に九戸城を出て浅野長政のもとに行くと、突然捕えられ閉じ込められてしまいます。すると、蒲生氏郷は降参の条件をすぐさま反故(ほご)にして、九戸城にいる人たち全員を撫で斬りにするように命じます。

端から信じていなかった弟の九戸実親は二の丸に籠って奮戦しますが、本丸を制圧した蒲生氏郷の軍勢の鉄砲に撃ち抜かれて討死。

秀吉軍は女子ども関係なく撫で斬りにしたり、二の丸に閉じ込めて火を放ち、焼き殺したりしたともいわれています。その伝承を物語るように、1995年の発掘調査では、二の丸の大手門近くで首のない人骨が十数体分発見されています。