「弓大将」というポストを与えられ…

それからも数々の合戦で得意の弓矢を武器に大活躍するとスカウトされたのか、長井隼人(道利)という武将に仕えます。このお方は斎藤道三(信長の義父)の息子という説もある稲葉山城(岐阜市)の斎藤家の重臣だった人物です。

しかし、長井隼人は1565年(永禄8)に信長に攻められて敗戦。拠点としていた金山城(岐阜県可児市)や関城(岐阜県関市)を追われます。雲八さんも長井隼人の軍勢に加わり、信長方と戦っています。

『どんマイナー武将伝説』(著:長谷川ヨシテル/柏書房)

それから2年後、信長が稲葉山城の斎藤龍興(道三の孫)を滅ぼすと、雲八さんの弓の腕前が噂になったのか、信長に呼び出されて家臣となっています。しかも「弓大将」というポストを与えられたそうです。

こうして、雲八さんも歴史の表舞台に立ったわけですが、信長に仕え始めた段階でもう60歳! 還暦です。当時としてはすでに長生きの部類ですし、隠居したり出家したりして第一線から退くのもよくあることでした。

ところが、雲八さんは戦の最前線で武功を挙げまくります。

この活躍に関して諸史料では、ほぼほぼ「射抜く」「射殺す」「射落とす」「射払う」などと、弓矢に関する言葉だけが使われているのが雲八さんの面白い点です。

活躍した合戦には1570年(元亀元)の「姉川の戦い」と「坂本の戦い」(「志賀の陣」)、1573年(天正元)の朝倉家との「刀禰坂(とねざか)の戦い」、1575年(天正3)の「長篠の戦い」などがありました。

ちなみに「刀禰坂の戦い」では、かつての主君である斎藤龍興と長井道利が朝倉軍として参戦し、2人とも討死したともいわれています。