家康から信頼を寄せられた最晩年

さて、豊臣家でも弓矢の腕前で名を上げた雲八さんは、1598年(慶長3)には故郷の美濃の他、尾張(愛知県)や摂津(大阪府・兵庫県)などに領地を加増されて領地は1万1200石となり、91歳になってついに1万石の大台を突破しました。で、まだ引退しません(笑)。

そしてついに、物語は1600年(慶長5)の「関ヶ原の戦い」へと移ります。

(写真提供:Photo AC)

この年、徳川家康は会津(福島県会津若松市)の上杉景勝を討つために「会津征伐」を決行。『内府(だいふ)公軍記』(『関原御合戦双紙』)などによると、その軍勢の中に93歳を迎えた「大島雲八」の名があるのです。信じられません!

会津へ向かう途中に、畿内で石田三成らが挙兵したことを聞いた家康は、率いていた武将たちを呼んで、いわゆる「小山評定」を開いたと伝わりますが、雲八さんは妻子を顧みずに味方する旨を家康に伝えたといいます(この件は他の武将たちの逸話でも聞いたことがありますが・笑)。

それから家康は軍勢を西に向けて「関ヶ原の戦い」が勃発。93歳の雲八さんも関ヶ原で大活躍!……といいたいところですが、雲八さんが関ヶ原にいたかどうかはハッキリわかりません。

雲八さんにゆかりのある自治体の史書(『川辺町史』や『富加(とみか)町史』など)によると「関ヶ原で戦った」と記されていますが、家康に仕えた医者(板坂卜斎)の日記である『慶長年中卜斎記』には「大島雲八は関ヶ原へは罷(まか)り出(い)でず」と記されています。

ちなみに、この内容が登場するのは1601年(慶長6)9月15日のことを記した部分で、ちょうど「関ヶ原の戦い」から1年後のことです。

この日、雲八さんと堀尾吉晴、猪子一時と船越景直の4人は家康に招かれて、「去年の合戦も雨だったが、1年後の今日も雨か」などと、関ヶ原の戦いをテーマに談笑したそうです。

その内容の最後に「関ヶ原にはいなかった」と板坂卜斎が記しているので、個人的な気持ちとしては雲八さんに合戦で弓を引いていてほしかったですが、残念ながら戦場に出ることはなかったのかもしれません。

とはいえ、長男の大島光成とともに東軍として貢献した雲八さんには、臼杵城(大分県臼杵市)が与えられる話が持ち上がります。が、雲八さんは故郷を離れたくなかったのか、これを辞退。美濃を中心に領地を加増され、合計1万8千石余となります。

それ以外に徳川家からの特別待遇もあり、家康の鷹狩りの場の使用を特別に許されたり、徳川秀忠(家康の子)からは領地に帰る許可をもらう度に時服(季節に合った衣類)や黄金、馬などをもらったりしました。

家康の隠居城である駿府城(静岡県静岡市)に呼ばれることもよくあったようで、その都度、家康から射芸や武勇伝について尋ねられたそうです。

駿府城の工事が終わった時には、石垣や狭間のチェックを依頼され、「何か不備があったら教えてほしい」と言われるほど信頼されています。家康は、雲八さんが安土城での矢窓奉行を務めたことを知っていた可能性もありますね。