さらなる大物からのオファー
信長の死後は、織田家の重臣だった丹羽長秀に仕えて1583年(天正11)の「賤ヶ岳の戦い」でも活躍。8千石の領地を与えられて丹羽家の重臣となり、のちに雲八さんの孫(大島義唯)は丹羽長秀の孫娘と結婚しています。
その後、さらなる大物からのオファーが届きます。その相手が羽柴秀吉です。秀吉は雲八さんを家臣として織田家時代と同じく弓大将に任じたのです。この転職の時期ですが、丹羽長秀が1585年(天正13)に亡くなっているので、その頃かもしれません。
それから雲八さんは、秀吉の命で豊臣秀次の家臣となっています。豊臣秀次は秀吉の甥で、秀吉の実子(鶴松)が夭逝した後に後継者に指名されて養子になり、1591年(天正19)に関白(かんぱく)の座を譲られた人物です。
次の天下人が決まったこのタイミングで、雲八さんはとんでもない偉業を成し遂げています。それが「八坂の塔への射込み」です。
当時、天下人が変わった際に、新たな天下人が誰かをアピールするために、京都の法観寺にある八坂の塔に家紋を入れた旗を掲げたんだそうです。
慣習通りに旗を掲げた豊臣秀次でしたが、さらなるアピールのために雲八さんを呼び出して、八坂の塔の最上階の窓に矢を射込むことを命じたのです。しかも10本連続で!
これは大変なことです。五重塔である八坂の塔は高さ46メートルもあります。その最上階の小さな窓に矢を連続で射込むなんて至難の業です。しかも、雲八さんは84歳ですので無理……ムチャブリ過ぎる……。
挑戦の結果、雲八さんは成功しました(笑)。連続で10本、見事に窓に射込んだそうです。超人すぎ!
ちなみに、雲八さんが矢を放った八坂の塔は、1440年(永享12)に建てられたもので、なんと当時の姿のまま現存!
良い子はくれぐれも、雲八さんをまねして矢を射込まないように。