ひと振りの弓で一揆衆を撃退!

そんな弓の達人の雲八さんですが、実は3年間だけ弓を使わずに槍で戦っていた時期があったそうです。

ある時、斎藤道三の家臣の武藤弥兵衛という人物と、武芸について言い争うことがありました。

武藤弥兵衛は、「御辺(ごへん。そなた)は弓で名を上げたが、我は槍で高名を得た。その優劣は抜群である」と、自分の手柄のほうがスゴくて、その結果は雲泥の差があると雲八さんをディスったのです。

この挑発に黙っておけない雲八さんは、「しからば、我も弓を捨て槍にて勝負を決すべし」と、相手の得意とする槍で勝敗を決めようと挑発に乗ったのです。

3年間のバトルの結果、武藤弥兵衛は感状(戦功を讃えた書状)を2通もらったのに対して、雲八さんは武藤弥兵衛を上回る4通でした。雲八さん、お見事!

こうして、槍でも活躍した雲八さんですが、「弓は衆に敵するに利あり」(弓は大勢を相手にする時に有利だ)と思い、再び武器を弓に持ち替えたんだそうです。

雲八さんは信長からかなり信頼されていたようで、『丹羽家譜伝』によると、「射芸に秀でていて“百発百中の妙”で知られていたため“安土城の矢窓(やまど)を切る奉行”となった」といいます。

安土城(滋賀県近江八幡市)は有名な信長の居城ですが、その城壁にある矢や鉄砲を射るための矢窓(狭間)のセッティング担当になったということですね。これはかなり重要なお仕事です。

「ここに矢窓を設置すれば、あそこにいる敵を狙撃できる」など、雲八さんの経験をもとに安土城の狭間が設計されたのかもしれません。ちなみに、安土城が完成した1579年(天正7)の段階で、雲八さんは御年72歳になります。

その3年後に「本能寺の変」が起きますが、雲八さんは安土城にいて、混乱の中で安土城を守るのは困難と判断して、妻子を連れて美濃に戻ろうとしました。

ところが、その途中で遭遇した一揆が雲八さん一行の前に立ち塞がってしまいます。このピンチを雲八さんは、たったひと張りの弓で一揆勢を多数射抜いて難なく突破したといいます。つ、強ぇ、雲八さん(75歳)!