“先に動いたら負け”戦法で謙信撃退

それでは浄三さんは、いかにして屈強な上杉軍を撃退したのでしょう!?

実はこの戦、臼井城にとっては、劣勢も劣勢でした。

その戦況は上杉謙信に従っていた武将(長尾景長)の書状に残っていまして、「臼井の地は、実城(みじょう。本丸)の堀一重に至って、諸軍は取り詰めていて、夜白(やはく。昼夜)の隙無く攻めているので、落ちないはずがない」とあるので、書状が書かれた3月20日の段階で落城寸前だったようです。

しかし、『小田原記』によると、浄三さんは味方と敵の軍勢の“気”を見て、こう分析したといいます。

「敵陣の上に気が立っているが、いずれも殺気であり、囚老に消える。味方の陣中に立つ軍気は、皆律気にして王相に消える間、敵は敗軍疑いなし」、つまり「敵陣の気は悪くて、味方の陣の気は良いから、敵の敗北は間違いなし」ということですね。それを聞いた城兵たちは「皆頼もしく(心強く)」思ったそうです。

一方、上杉謙信は「これ程の小城、何程のことかあるべき。唯、一攻めに揉み落とせ」と下知して、一気に攻め掛かります。

それに対して浄三さんは、鬨(とき)の声を上げさせて城門をいきなり開いて突撃!

中でも、原胤貞の家老の佐久間主水介と、援軍として駆け付けていた北条家臣の松田康郷(孫太郎)が一騎当千の活躍を見せて初日の猛攻を退けました(『関八州古戦録』)。