機転のきいた「クレバー」な対応

そんな仕事においてバツグンのアイディアと実行力を持っていた忠次さんは、小田原城の蔵に残る兵糧(粟10万石)を確認する時にも、才覚を発揮します。

兵糧はたくさん残っていたはずなのに、すぐさまその残量を合計して秀吉に報告したのです。「どうやって神速の合計をしたんだ」と家康に問われると、忠次さんはこう答えました。

「蔵に入ってすべての包みをひとつひとつ調べて量ったら、いくら日数を重ねても、成果を得ることは難しいでしょう。蔵の中の兵糧は、たとえ多くても減ることはないし、少なくても増えることはないので、豊臣家の役人と会議して“蔵を封印したまま”受け取りました」

つまり、忠次さんは蔵を開けずに、村役人に納めた年貢の量を記帳させて計算、超時間短縮を行い、さらに「兵糧、盗んだ?」とありもしない疑いをかけられないためのクレバーな対応をしたんです。

この忠次さんの機転に家康は感心、秀吉も「我に家臣は多いといっても、その才幹(さいかん。知恵や働き)が忠次の右に出る者はいない」と大絶賛して、「我に仕えれば禄(ろく。給料)は万石を与えるぞ」とヘッドハンティングしようとしたといいます。

「小田原征伐」の前後で合戦ではなく実務で名を挙げた忠次さんは、家康が関東に移ると武蔵の小室(埼玉県伊奈町)や鴻巣(埼玉県鴻巣市)などに1万石の領地を得て大名となりました。

そして、家康から関東代官頭(他に大久保長安・彦坂元正・長谷川長綱)に任命され、合計100万石にもなる徳川家の領地の税を司る役人のトップ、いわば徳川家の“財務大臣”的なポジションに就いたわけです。

ちなみにこの後、忠次さんが領地に築いた城館が先に紹介した「伊奈氏屋敷」になります。

忠次さんは年貢の管理以外にも、太日川(ふといがわ。現・江戸川)沿いの市川(千葉県市川市)や松戸(千葉県松戸市)、房川(ぼうせん。埼玉県久喜市)の関所の管理、米の生産量アップのための新田開発、土地の管理や米の生産量を調べるための検地、徳川家の家臣たちの知行管理、宿場町や街道の整備、農民の養蚕や塩作りの推進、桑や麻や楮の栽培方法の普及などなど、とにかく多方面で辣腕(らつわん)を振るいました。

その影響力は江戸時代を通じて続き、忠次さんが始めた年貢の徴収方法(豊作や凶作に関係なく一定の税を徴収する方法)は、その後「伊奈流」と呼ばれるようになり、忠次さん流の検地は「伊奈検地」や「備前検地」、「熊蔵縄」(熊蔵は忠次さんの通称)などと呼ばれました。