干上がった地中海
長いこと教壇に立ち大学生と接しているが、地中海が干上がったはなしをするとたいてい驚かれる。高校地学の履修率が低いことも一因だろう。地中海が干上がったのは約600万年前〜約530万年前(図5-6)にかけて。人類の進化上、ちょうどヒト亜属とチンパンジー亜属が分岐したころのはなしなので、高校世界史の守備範囲内でもある。教科書の冒頭に一行でもよいのでこの地中海が干上がったはなしに触れてほしいと切に願う。教科連携にもなる。
地中海は先にみた蒸発岩が形成される三つの条件をほぼ充たしている。地図を見るとわかるように、大西洋と地中海をつなぐジブラルタル海峡は非常に狭く、外洋との接続は限られている。大規模河川はナイル川だけで、外洋との接続は限られ、乾燥した地中海式気候である。ただし、現在のジブラルタル海峡は狭いとはいえ、水深が約900mもある。表層水のみならず中層水まで水のやり取りがある。
約600万年前〜約530万年前のあいだ、このただでさえ狭いジブラルタル海峡が閉ざされた(図5-7A)。巨大な蒸発皿と化した地中海は干上がり、蒸発岩を堆積させる(図5- 7B)。しかも一度きりの海峡閉鎖と干上がりだけではすまず、ジブラルタルはときどき決壊し、大量の大西洋の海水を流入させた。
結果として、地中海を満杯にした上で蒸発、というのを30回繰り返した量に相当する蒸発岩が堆積し続けた。地球全体の海の体積と比較して、地中海はちっぽけなものだが、さすがに地中海30杯分もの塩分を集めると、ほかの大洋も影響を受ける。この時代、大洋の海水塩分濃度は3.5%から3.3%へと低下した。そしてこの大事件は、これが起こった地質時代名が冠され、「メッシニアンの塩分危機」という地学マニアをくすぐる名称がつけられている。
※本稿は、『日本列島はすごい――水・森林・黄金を生んだ大地』(中公新書)の一部を再編集したものです
『日本列島はすごい――水・森林・黄金を生んだ大地』(著:伊藤孝/中公新書)
1万4千の島々が連なる日本列島は、ユーラシア大陸の東縁でその土台ができ、やがて分離。3万8千年前に人類が上陸し、歴史を紡いできた。変化に富んだ気候が豊かな資源を生み、国土を潤す。本書は、時空を超えて島国の成り立ちと形を一望し、水、火、塩、森、鉄、黄金が織りなした日本列島史を読み直す。天災から命を守り、資源を活かす暮らしとは。地学教育の第一人者が、列島で生きる醍醐味をやさしく解説する。