下鴨神社で能「葵上」を観る

また、『源氏物語』は能をはじめとする舞台芸術の題材にもなっています。

そのなかのひとつ、能「葵上」の主役は六条御息所、その人です。この演目において、六条御息所は「鬼」として表現されます。また、タイトルになっている葵の上は登場せず、舞台正面手前に置かれた1枚の小袖が、病床の葵の上を表すという演出も印象的です。

簡単にあらすじを紹介しましょう。

物の怪に苦しめられ、病床に伏している葵の上。巫女が霊を呼ぶと、姿を現したのは六条御息所の生霊でした。御息所の生霊は、源氏の足が遠のいていることや、「車争い」で正妻に敗れた恨みや屈辱を訴えます。葵の上を冥土に連れ去ろうとする御息所。そこで強い法力を持つ小聖(こひじり)が駆けつけ、祈祷を始めたところ、生霊は鬼女となり小聖にも襲いかかる……。

京都では、5月下旬、下鴨神社の境内にある舞殿で開催された「糺能(ただすのう)」で、この「葵上」が上演されました。

「糺能」のポスター(撮影◎筆者)

古来より禊(みそ)ぎの地と知られる下鴨神社の「糺(ただす)の森」では、約560年前、将軍・足利義政をはじめとする大名の前で「糺河原勧進猿楽」が盛大に行われたそうです。それを再興したのが「糺能」なのです。

「車争い」の舞台となった賀茂祭は、下鴨神社の例祭。『光る君へ』効果で『源氏物語』への関心が高まるなか、世界遺産でもある下鴨神社の境内で、ゆかりの演目「葵上」を鑑賞する――こんな機会は滅多にないとチケットを買いました。日常のなかでこうした体験ができるのも、京都暮らしの醍醐味でしょう。

瑞々しい新緑に囲まれた境内。空がゆっくりと暮れゆく頃、かがり火に火が入ります。

「ああ、恨めしい。私の恨みは決して尽きることはありません」そんな呪いの言葉を吐きながら、六条御息所の生霊は葵の上を苦しめます。小聖と闘う後半では、角が生えた般若の能面に変わり、誇り高き御息所がまさに鬼女と化して舞うのです。

薪の燃えるパチパチという音に、妖しくゆらめく炎。すべてが能という幽玄の美を演出しているように思われました。