大人数のクラスでやってみて、おもしろいことに気がついた。

先生は鏡に向かっている。みんなはその後ろ姿を見ながら見よう見まねで動く──というのがどこでも基本なんだけど、なんとそのクラスでは、先生の後ろに、人々が学校の朝礼みたいな列を作って、ぴしっと並んだのである。きょーつけ、前へならえ、みたいな並び方だから、最前列の人以外、前の人と重なって、鏡にうつる自分が見えない。

自分が見えないと、自分の手足や筋肉の動かし方も見えない。すると先生の動きをちゃんとまねできてるかどうかもわからない。

そこであたしは考えた。鏡とは──。

たとえば美容院の鏡は──。否応なしに自分の老いをさらけ出し、否応なしに自分の母と向かい合う鏡である。

家の中の鏡は──。自分の好きなように自分を見る鏡であり、まだまだイケるなと思う鏡である。

ところがズンバの鏡は、自分の動きや筋肉や体形を、ただありのままにうつし出す、そのための鏡なんである。

そんなことを考えていたとき、アヤ先生があたしの詩集を読んだと言ってきた。

「詩集なんか読むの初めてだったけど、すごく読みやすかった。ひろみさんを知ってるせいですかね。なんだか今どきの人たちって、人がどう思うか、何を言うか、そればかり気にしているけど、ここに書いてあるのは自分のことだけ。ひろみさんは自分のことしか見てない。書いてない。それでいいんだなあと思ったんですよ」とアヤ先生は言った。