「編集部に向かうのだろう? わたしもそのつもりだから歩きながら話したほうが合理的だ。昨夜は、駅の向こうの櫻町(さくらちょう)に住む古い友人と話しこんでしまったから、そのままそちらにおじゃましたんだ。ハル、そんなに難しく考えないでほしい。この街で暮らしはじめたきみの目に入る、わたしたちの暮らしぶりや社会の様子を率直に書きつづってくれればいいんだ。旅行者の視点ではなく――」
 そこで、あたりを軽く見まわして、少しだけ声のトーンを落とし、「もちろん、総督府のお偉方の視点でもなくな」といった。
 秘密を共有するようにいたずらっぽく笑った百合川の頰にはえくぼができている。 
「そうおっしゃられても、あたしには人生の主題がありませんから、そう簡単にはいきませんよ――」
 ハルの言葉ににじむ卑屈な感情をまったく気にする様子もなく、百合川はまた笑みを浮かべる。
「ハルは記事を書くとき、だれに読んでほしいと思って書いている?」
「さあ、考えたこともありません。東京にいたころは、家庭欄を読むのはおもに女性ですから、なるべく彼女たちの役に立ちそうな家事や調理法について書こうと思ったことはありましたが」
 大通りを車に気をつけてわたりながら、百合川はうなずく。手に汗がにじんでいる。
「わたしは、台湾に暮らす同世代の女性たちに向けて書いている。そもそも母の世代は日本語が読めないしな。わたしたちの世代は、台湾語で暮らしているが、文章で表現する方法を日本語で学んだ。いわば日本語は武器なんだ。だから、女学校や留学でほんの一瞬だけ自由の感触を知りながらも、因習的な結婚生活を送らなければならない若い女性たちに雑誌を届けたい。その女性たちが、苦しい日常にいてもこの雑誌をふと思いだして希望をつないだり、理不尽な暴力から逃げ出したりできるように。わたしがやりたいのはそういうことなんだ」