「あくび……ですか」とハルはききかえす。
さぞ愉快といった表情を浮かべて、「最前列であくびを三回した」と百合川はいった。
ハルは少し前に百合川の言葉に胸を熱くしたことが急にばからしく感じられて、百合川に引かれていた手を振りほどくようにはらうと、半ば喧嘩腰でいった。
「そんなちっぽけな理由ですか。あたしのことをばかにしてるんですか?」
「きみは気が短いな。だれの前であくびをしたのかが重要なんだ。自分では気づいていなかったかもしれないが、きみは総督府のお偉方が冒頭で挨拶したとき、隠す様子もなく、三回大きなあくびをしたんだ。いかにも退屈そうにね。それなのに、わが台中が誇る台湾人初の女医、蔡阿信(さい・あしん)氏が演壇に立つと居ずまいを正し、林芙美子(はやし・ふみこ)氏の話がはじまると身を乗りだしてききいっていた。わたしは、すっかり講演よりもきみの様子に夢中になっていたんだ。だから、終わったら真っ先に話しかけようと心に決めていた」
そこまで一息で話すと百合川は、ハルの目を射貫くようなまなざしでみつめた。思わず、ハルは目をそらす。
「権威や規則ではなくて、なにが自分に大切かわかっているというのは、ほんとうに重要なことだよ。いまも編集長のわたしに殴りかからんばかりの剣幕じゃないか。とても腕力ではかないそうもないから、わたしは逃げだすことにするよ」
そういうと百合川は駆けだして、あっというまに橋をわたりきった。
ハルは呆然とその小さな背中を見ていた。
――ほんと、憎たらしいったらありゃしない。
(続く)
実在の個人や団体とは一切関係ありません。