一条天皇の後宮の状況

しかしこの時に皇后になったのは、円融上皇の中宮だった藤原遵子(公任の姉)です。

道長はこの前例をさらに乱用し、一人の天皇に皇后と中宮の2人の「正妻」を置くという強引な策に出たわけです。

じつはこの時、一条天皇の後宮はかなり賑わっていました。

まず寵愛が厚いのは定子とその同母妹の御匣殿ですが、当時すでに、この2人のバックの中関白家は衰退しています。

そのほかに三人の女御、藤原公季の娘・義子(天皇より6歳年上)、顕光の娘・元子(1歳年上)、道兼の娘・尊子(4歳年下)がいて、いつ男子が産まれてもおかしくない状況ではありました。

しかしながら、まだ少女の彰子が正妻に入った以上、これ以上の女御を入れる事は道長に対するはばかりになる。そして彰子が入内した年には定子が、2年後に御匣殿が亡くなってしまいました。