彰子の妊娠・出産を待った道長

つまりこれ以後、一条の後宮に娘をいれたいと考えた有力貴族がいても、中宮彰子が立ちふさがるので、それはできない。あとは彰子の妊娠・出産待ちでした。

しかし、先述した通りで、彼女が後の後一条天皇を出産したのは入内から10年後となります。

おそらく入内後数年で、彰子自身は子を産める状況になっていたと思われますが、様々な事情でなかなかできなかったのでしょう。

そこで道長が注目したであろう存在が、定子の遺児の敦康親王と、道兼の娘の女御尊子です。

この二人の共通点は道長に近い親戚で、しかも後見がいない、つまり道長庇護下の立場でした。

敦康は実質的に彰子が育てており、彰子に子供ができない時には養子になる可能性がありました。またもし尊子が男子を産めば、やはり同様のことになった可能性があります。

道長はこのように幾重にも保険をかけながら、彰子の妊娠を待っていたのです。