小次郎の死

4月7日、政宗は小次郎の主席守役の小原縫之助の屋敷で、小次郎を殺害しようとした。

屋代景頼は小次郎の殺害を政宗から命じられるが、何度も辞退して助命を願った。そうしているうちに、小次郎が政宗の前に姿をあらわした。

『戦国大名の家中抗争 父子・兄弟・一族・家臣はなぜ争うのか?』(著:渡邊大門/星海社)

政宗は、小次郎に切腹を指示したが躊躇していた。そこで、政宗は自ら脇差で小次郎を切り伏せると、屋代にとどめを刺すよう命じ、守役の小原も殺害された。

政宗は小次郎に罪はなかったが、母を殺害できなかったので、小次郎を討ったと述べている。事件について、何らかのけじめが必要だったのだろう。

保春院は実家である最上氏を頼りにして、山形城へと逃亡した。

『伊達族譜』の小次郎の箇所には、「天正十八年四月七日、故あって亡くなった」と簡単な記述があるのみである。他の伊達氏関係の系図を見ても、「早世」といった言葉しかない。

小次郎の死は、あまり触れたくないことだったのであろう。