「法印秀雄」という人物

小次郎は暗殺されたといわれているが、近年になって新説が提起されている。

東京都あきる野市に真言宗の大悲願寺という寺院があり、元和9年(1622)8月21日付の伊達政宗書状(住職の海誉<かいよ>上人宛)が残っている(「白萩文書」)。

内容は、同寺を訪れた政宗が庭に咲いていた白萩の美しさに感激し、その株分けを依頼したものである。

大悲願寺の15代住職は、法印秀雄(しゅうゆう)なる人物であり、実は政宗の弟であるといわれている。それゆえ、政宗が同寺を訪れたのは、秀雄に会うためだったと地元では伝わっている。

同寺が所蔵する『金色山(こんじきざん)過去帳』によると、「秀雄は伊達輝宗の次男で、政宗の弟である」と書き記されている。

ちなみに、秀雄の住職であった期間は、寛永12年(1635)9月から翌年6月にかけてのことだった。

注目すべきは、寛永13年(1636)5月24日の政宗の命日を記した回向(えこう)が行われ、政宗のことが「輝宗の嫡男で、秀雄の兄」と書かれていることだ。

伊達家の系図には、秀雄という人物は出てこない。しかし、秀雄が小次郎であるという可能性は、捨てきれないところだ。

その後、秀雄は現在の東京都中野区にある真言宗寺院・宝仙寺の14代住職を務め、寛永19年(1642)7月26日に亡くなった。享年不詳。

※本稿は、『戦国大名の家中抗争 父子・兄弟・一族・家臣はなぜ争うのか?』(星海社)の一部を再編集したものです。


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