喜劇の楽しさを最初に教えてくれたのは親父です。劇場で働いていたので、ふらりと幼稚園に迎えに来ては、僕を肩車して神戸の繁華街・新開地の劇場に連れていってくれました。
楽屋で遊んでいるうちに、いつの間にか役者さんにセリフを教わり、衣装を着せられて舞台へ。幼い子が「かかさんの名はお弓と申します~」なんて浄瑠璃の名セリフを言うもんだから、お客さんは大喜びです。あのときの興奮や快感が、僕の原点といえるかもしれません。
でも、そんな幸せは長く続きませんでした。9歳のとき、親父は腸チフスで急死。生まれて間もない妹は母のもとに残り、僕は父の兄夫婦に引き取られることになって、家族はバラバラに。
伯母は性格のきつい人でね。「おばちゃん」と呼ぶと「お母ちゃんやろ!」と力いっぱいぶつんです。耐えられなくなって、母のもとへ家出したことがありました。しかしそこで見たのは、再婚相手の機嫌をうかがいながら怯えて暮らす母と妹の姿。僕の居場所なんてなかったんです。
仕方なく伯父夫婦の待つ神戸へ戻る日、地面に座り込んで泣き崩れる母の姿がバスの窓から見えました。後にも先にも、あんなにつらく切ない思いをしたことはありません。
その後も、試練は続きます。19歳で肺結核になり、片肺を切除。医師に「君は40歳までしか生きられへん。結婚はするな。子どもも持つな」と言われて。「どうせ長く生きられないならやりたいことをやってやろう」と開き直りました。逆境が闘志につながったんですから、人生はわからないものです。
子ども時代は寂しくて泣いてばかりでしたが、その経験が僕をちょっと複雑な人間に育て、「甘いだけじゃない砂糖」になれたのかもしれません。不器用ながらも、僕を精一杯愛してくれた二人の母のおかげでもあります。