凡庸と言われた道綱の娘でありながら…

紫式部が出仕したのは1006年頃で、道綱はとっくに大納言でしたから、「宰相の君」はかなり若い頃からの通り名で、おそらく紫式部には「年下の美人上司」という感じだったのでしょう。

道綱の娘ですから、関白兼家の孫娘でありながら、今でいうバリキャリになっていたわけですね。凡庸と言われた道綱にしてはよくできた娘さんです。

彼女の母はわかっていないので、関白の子とはいえ庶子である道綱(母は『蜻蛉日記』の作者)のさらに庶子として生まれたのでしょう。

彼女は美人でしかも頭のいい人(祖母に似たのかな…)だったので、中宮になった従姉妹の彰子の元に送り込まれたとも考えられます。もしかしたら、道綱は意外に目端のきく人だったのかもしれません。いや、やっぱり彼女の母の手柄かな?

そして彼女は出産のお世話をした敦成親王の乳母として従四位という高い位になり、最後は従三位という地位にまで上ります。