ピアノソナタに託された思い

長女は事故に遭う2時間前、大学でピアノを指導する教授に「来週はベートーベンのソナタ『悲愴』を弾きます」と告げていたという。なぜそんな曲を選んだのだろう。不慮の事故に遭う運命を、予感していたのだろうか。

さらに、長女の死から半年以上経った頃、彼女が幼い頃から師事していたピアノの先生からは、こんな話を伺った。

「ある日の夜中にレッスン室から、ベートーべンのソナタ『月光』の調べが流れてきたのです。私は直感で『彼女だ、彼女が今弾きに来てくれているんだ』と聴き入りました。決して夢ではありません。彼女は確かに『月光』を弾きに、ここに来たのです」

なぜ今度は「悲愴」ではなく、「月光」だったのだろう。

「悲愴」「月光」は、「熱情」とともに、ベートーベンの三大ピアノソナタと言われる。私はスマホで検索し、「悲愴」を聴いてみた。冒頭から激しい鍵盤の音が響き、一瞬にして絶望の境地に突き落とされる。竜巻が現れ、そこにあるすべてのものを吸い上げながら荒れ狂う。私と長女もその渦に巻き込まれ、息も絶え絶えになるような気がした。再生をやめ、我に返る。絶望の曲だ──。

一方、「月光」は、静かな月の夜と、寄せては返す波の音を思わせる曲調で、聴く者に心の安らぎを与えてくれる。私は「月光」の楽譜を取り出し、弾いてみようと思った。指が、鍵盤に重く深く食い込むように、音を奏で始める。そして静かにゆっくりと弾き終えた。そこで感じたことは、人生のはかなさと、諦めの境地だ。

長女は、自分が旅立つ無念と、家族の悲しみを「悲愴」で、さらにはその運命を受け入れる覚悟と、安寧にいたった思いを「月光」で奏で、伝えようとしていたのではないだろうか──。