「あの世に一番近い場所」へ

私はこれまでにも身近な人を見送った経験があり、死というものを人並みに理解しているつもりだった。でも長女が、小さな真っ白なお骨になったのを見ると、心が芯から凍りつく。さらに戸籍や大学を死亡除籍されたことを知り、長女の存在そのものがなくなるという現実に愕然とした。

それから数ヵ月後。ふと、死者の霊魂が集まり「あの世に一番近い場所」と言われる青森の恐山に行って、長女を探してみようと思いつく。折しも幼なじみが、夫に病気で先立たれた頃だった。彼女は、小学生の2人の子どもを抱えて途方にくれている。

長女の一周忌を前に、私たちは、連れ立って恐山に旅立つことにした。そこに行けば、長女の存在を確信し、私は救われると思ったのだ。

しかし、恐山に問い合わせてみると、イタコさんたちはすでに高齢で、山に常駐しているわけではない、とのこと。今は年2回の恐山大祭の時期だけ入山し、口寄せをしているのだという。

しかも、知り合いからは「心の弱っている者は、恐山に行ってはいけない」と忠告される。私たちは泣く泣く、恐山への入山は諦めることに。仕方なく、青森に住むイタコさんの家で口寄せをしていただくことになった。

だが、私はイタコさんの口寄せからは、長女の存在を確信できなかった。ここでイタコさんの体を通して語っているのが、私の長女ではないような気がしてしまったのだ。救われなかった……。

長女は、死者の霊魂が集まるという恐山の存在を知らないのか、あるいは親戚の誰よりも早く逝ってしまったから、お迎えの人もなく、ひとりでこの世を彷徨っているのかもしれない。帰りの飛行機で、溢れる涙を隠そうと、額を窓に寄せた。

すると目に飛び込んできたのは、果てしなく雲海が広がる天上の世界。雲海の上に、満月が浮かんでいる。

その月の佇まいは、慈愛に満ちていた。金粉のような不思議な輝きをまとい、溢れる月の光が、雲海の隅々まで降り注ぐ。その光のシャワーは雲に溶け、深く眠る下界の闇へと続く。

天国とは、こんなところかもしれない。こんな清らかな世界ならば、たとえひとりぼっちでもすぐに受け入れられ、悲愴感も消え去る──。

隣の席の幼なじみも「凄く神秘的な光景だね。私たちを安心させるために見せてくれたのかな」と呟いた。

その時である。私の耳にベートーベンの「月光」の調べが聴こえ、その世界観に優しく抱かれているような気がした。

「悲愴」に囚われていた私に、長女が「月光」を聴かせ、導いてくれたのだ。私はこの「月光」の世界を、心に焼き付けた。夜の飛行機に乗るチャンスはそれまでにもその後にもあったが、このような神々しい光景を見たのは、その時きりだった。

イメージ(写真提供:写真AC)