深い悲しみを乗り越えて
6年ほど前。たまたま市外を通った時、私は小さなお堂に「苦抜観音」がいらっしゃることに気づいた。そのお堂の外にある柱に、一本の釘抜きが掛かっている。釘抜きで「苦を抜く」ということらしい。参詣者が撫でていくようで、年季の入った深い色になっている。そこを知って以来、私は通るたびに参詣するようになった。
私は「生ある限り四苦(生老病死)からは逃れられないにしても、やっぱり痛みと認知症だけは勘弁してください」と願って釘抜きを撫でる。ある日、いつものように釘抜きを撫でていると、近所に住むというおばあさんが、こんな話をしてくれた。
「私は数年前に、胃がんの手術をしましてね。無事に手術が終わって目を覚ましたら、観音様が私を覗き込んでいらっしゃったのです。私はありがたくて、思わず合掌しながら涙が溢れたのよ。術後の痛みや再発に苦しまずに今があるのは、観音様のおかげだと思っているの」
それを聞いてから、私は観音様に願掛けするのではなく、観音様の存在そのものに感謝するようになった。
私は苦抜観音に、長女に先立たれた苦を抜いてほしいとは決して望まない。永六輔氏が「人は二度死ぬ」と言ったそうだ。「一度目は肉体の死。その人のことが忘れ去られた時が、二度目の死である」と。
人は忘れることで救われるという。「時の流れ」は優しく寄り添ってはくれるが、私は自分が生ある限り、長女を二度死なせぬように、この苦を手放してはならぬと思ってきた。
でも、もしかすると、孫と一緒にミニキッチンでおままごとをする機会を授けてくれたのは、観音様の救いなのではないか。逆縁の苦を手放してはならぬなどと執着する私の心を溶かすために、この機会を与えてくださったのではないか──。
苦抜観音の近くにある銀杏の木に生るギンナンの実は、その堅い殻の中に訪れる人々のさまざまな苦を閉じこめ、やがて新たな大地で芽吹く時に苦を昇華させているのかもしれない。この木のどこかに、まだ熟していない私の実もあるのだろう。
天から吹き下ろす風は、何者にもいつも平等に吹いている。その時の立ち位置で向かい風になったり、追い風になったり、時には竜巻に巻き込まれることもあろう。また凪であっても、「気」は確かに息づき動いている。
気負うことなく、その日の風を感じながら私は孫とおままごとを楽しもう。そして孫がおままごとに飽きた頃には、私のギンナンの実もとっくに芽吹き、私は軽やかに生きていると思うのだ。