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読者が自らの体験を綴る、『婦人公論』の恒例企画「読者ノンフィクション」。2019年も、100篇を超す投稿のなかから、編集部が選んだ作品を紹介します。本日は、長女との突然の別れを経験した細貝靖子さん(仮名)の手記です。悲愴感に打ちひしがれるなか、娘が奏でるベートーベンのソナタが聴こえてきて……

私は、違う時空に迷い込んだに違いない

「お母さん、伴奏者賞を取ったよ!」

長女が帰宅するなり、中学校の音楽祭でピアノ伴奏をし、1年生ながら伴奏者賞をもらえたと興奮気味に伝える。私はそのような賞があることに驚き、また彼女の技量が認められたことが嬉しかった。

幼い頃からピアノが好きだった長女。次々と曲を弾きこなし、練習を切り上げさせるのに苦労したものだ。私は特技か趣味の一つにでもなれば十分というくらいの気持ちで習わせていたのだったが、長女が小学校の卒業文集に書いた夢は「音楽の先生になる」。

受験真っ最中でもレッスンを休まず、希望通り県外にある大学の芸術音楽科への合格を果たし、ひとり暮らしをすることに。順風満帆な巣立ちだ。

こうして15年前、長女は意気揚々とキャンパスライフを始める。私は長女が奏でるピアノの音色が好きだった。すらりと長い指から、時には優しく甘く、時には切ない旋律が生まれ、うっとりと聴き入る。これから恋や失恋をし、さまざまな挫折も味わいながら成長し、そのたびに奏でる音色に深みが増していくのだろうと思いを馳せていた。

だが大学に入学した1年目の秋、自転車で横断歩道を渡ろうとして、車にはねられ即死してしまった──。

事故の知らせを受け、病院に駆けつけた。長女のは、氷のように冷たい。私は慌てて温めたが、どんなに温めても冷たいまま。

夫が病院の長女に付き添うこととなり、私はひとりで長女のアパートに必要なものを取りに行かなければならなかった。嗚咽が止まらず、ショックで言葉が出ない私の代わりに、看護師さんがタクシーの運転手さんに事情を話してくれる。住所も告げられないまま、右、左と声を絞り出すように指示しながら、やっと長女のアパートにたどりつく。

べランダに、衣類が干したままになっている。部屋にも衣類にも長女の香りが漂い、冷蔵庫には前日の夕食の残り物や、長女の好きな果物があった。今夜食べるつもりだったのだろう。洗濯物を取り込みクローゼットを開けると、ピアノの演奏会で必要になるだろうと私が用意したドレスや、入学式で着たスーツを見つけた。

誰もいない部屋を見回した時、部屋がぐにゃりと歪むような感じがし、思わず壁にもたれかかる。なぜ私がここにいるのか。今頃、長女はここに帰ってくるはずだったのに。病院で眠る長女と、今ここにいる私は、違う時空に迷い込んだに違いない。自宅に帰ればリセットされて、元の時空に戻るのではないか……。

だから、私が今ここで倒れるわけにはいかない。病院の服を着て眠る長女を着替えさせ、一刻も早く自宅に連れて帰らねば……。そう意を決し、荷物をまとめて、待っているタクシーに戻る。

病院へ戻る途中、タクシーの運転手さんが、

「私も、先日妻を亡くしました。だからといってあなたと同じということにはなりませんが、遺される者はつらいですよね……」

と一緒に泣いてくださった。病院へ着いてもお金の出し方がわからず、財布ごと運転手さんに渡して支払いを済ませたような記憶がある。

病院に戻ると、長女の血液が付き、救命処置のために切り裂かれた衣類を渡された。「これは夫や次女に見せてはいけない」。私はそう思った。