そして、いま――

筆者の上野れつ子さんに掲載打診の連絡をしたところ、娘の山岸麻利子さんとお話しする機会を得ました。応募から数ヵ月後の2023年9月10日、れつ子さんは他界しておられたのです。麻利子さんは、母の綴った秀作の背景を快くお聞かせくださいました

――編集部から連絡があったと知ったら、母はどれほど喜んだことでしょう。この電話もいま、母の写真の前でかけています。

亡くなるまでの1年半ほど近居、最後の半年ほど同居しましたので、『婦人公論』に送るノンフィクションを書いていたことは知っていました。文学少女だった母は文章を書くのが好きで、30代後半からそういったサークルに多数参加していました。

亡くなって遺品を整理したところ、これまでに15ほどのサークルで活動をしていたようです。短歌の会は15年も所属し、特に大切にしていました。

パソコンを使いこなし、この原稿も当初はパソコンで打っていました。印刷の段でうまくいかなくなったのか、最終的に手書きの原稿用紙で応募していますが、母の打ったデータはパソコンのなかにいまも残っています。同居前の2023年初春から4ヵ月ほどかけて書き上げました。