これは、氷見(ひみ)(富山県)にある雨晴(あまはらし)海海岸のほど近くでのお話です。雨晴海岸は海の向こうに立山連峰が見える景勝地。そこから数十分ほど歩いたところで母は育ちました。
家の裏山には墓があり、これは私の推測ですが、お盆過ぎの話ですから家族で墓に行ったあとのことだったのではないでしょうか。突然伯母が「こっくりさんを呼ぶ」と言い出した様子が、私にはなんとなく想像できるのです。
原稿を書くにあたり、母ははじめてこの話を私に聞かせてくれました。面白半分に人に話す内容ではなく、長年、心のなかで大切に熟成させ、人生の最後にようやく書こうと決めたのだと思います。
母も伯母もスピリチュアルなことに関心があるほうではなかったので、夏の盛りの、終戦直後のあの状況が伯母をそうさせたのではないか。母に至っては、すぐ上の姉さんは逆らえない絶対的な存在でしたから、素直に従う様子が伝わってきますよね。
私にとって伯母は、夏になると遊びに行く身近な存在でした。ただ、昔の人のきょうだいの上下関係は絶対だったんだと思います。5人ともきょうだい仲はとてもよかったけれど、「一緒に遊ぶ」といった関係ではなく、きちんと一線を引くところがありました。
文中の「明治生まれの父」――祖父は小学校の校長先生でした。自宅のアマ(屋根裏)には祖父の本がたくさんあって、そこで本を読むのが好きだった母は、やがて源氏物語と万葉集が愛読書になりました。ただ、生計は働き者の祖母が苦労しながら農業で立てていたと聞いています。
そんな祖母にとって長男は特別な存在だったようで、伯父が満洲から持ち帰ったゴワゴワの毛布を最後まで大切にしていたことは私も覚えています。満洲から文房具を送ってくれた、と母も言っていましたが、早くに家を出て、長男として家を支えようとしたのが伯父でした。
病気がちだったひとりを除いて、きょうだい4人が90代まで生き、最後に残った母も享年95ですから、長命でよい関係のきょうだいだったと思います。妻に先立たれ、99歳まで生きた伯父を老老介護し、看取り、喪主をつとめたのも母でした。