「遅かれ早かれ目をつけられるのはわかっていたから気にしないでいい。ただ無茶はしないでくれよ。蔡家といえども、治安維持法で引っ張られた人間をたすけることはできないんだ。今日は顔見せだったが、これからは簡単にはいかないだろうしな」

 ハルは力なく、はい、そうですよね、とうなずいて、自分の席につく。波子と目があうと、少し怯えたような表情で、目をそらした。

 怖がらせてしまった――。

 いつだってそうだった、とハルは思いだす。最初の記憶は、妹の小鈴をからかった近所の悪ガキを完膚なきまでに叩きのめして、小鈴に、お姉ちゃん、怖いよ、と怯えられ、母に納屋に一晩閉じこめられたときのことだ。加納瑠璃子と疎遠になったきっかけも、通りすがりにふたりをからかった酔っぱらいを追いかけて、ドブ川に突き落としたことだった。いったい、その強い怒りがどこから湧いてくるのかわからないが、百合川のいうようにいつも自分はやりすぎてしまう――。

 机に突っ伏して過去の苦々しい記憶と静かに格闘していたハルに、百合川は思いだしたように声をかけた。

「あいつらを追い払ってくれたお礼に、今夜はご馳走しよう。家にいる玉蘭には、梅雪がなにか届けるといっていたから気にしなくていい」

 ハルは無言で首を縦にふる。いつも自信に満ちた百合川の誘いを断ることのできる人間などいるだろうか。

(続く)

この作品は一九三〇年代の台湾を舞台としたフィクションです。
実在の個人や団体とは一切関係ありません。