「生意気なリーヤめ!」
台湾人への蔑称であるその言葉が耳に届いた瞬間、自分でも予想を超えた怒りにハルは思わず手に持っていたラムネの空き瓶を床に叩きつけていた。
ガシャン、という大きな音が響いて、床に緑色の瓶の破片が飛び散る。
ふたりの男の関心が入口に向いた瞬間を狙って、ハルは身を低くして土佐犬に駆け寄ると、百合川の肩にかけられた手を摑んで、後ろ手にひねりあげた。
「なにしやがる!」と土佐犬が苦しそうな声を上げる。
もうひとりの男を牽制するように、ハルは土佐犬を見下ろして、怒気を帯びた声でいった。
「一歩でも動いたら折るよ」
のちにその場面を回想して、劉は、ハルが巨人のように見えた、といっていたが、小柄な土佐犬は腕の痛みに体を動かすこともできないまま、目に怒りをたたえて、相方のほうを見た。
そろそろ頃合いかな、とハルは、土佐犬の手を放すと同時に、その体を痩身の男に向かって突き飛ばした。痩身の男は、驚いたような顔をして土佐犬を受け止める。その身のこなしから、痩身の男にもなにか武術の心得がありそうだとハルは思った。
ハルに殴りかかろうとする土佐犬の手を痩身の男が止めた。
「まあまあ、ちょっと落ち着いてくださいよ。今日は、挨拶だけってことにしましょうや。相手は蔡家のご令嬢だ。あんまり失礼があってもあとで面倒でしょう」
痩身の男は冷静な声でそういうと、ハルに軽く会釈した。
「ずいぶん威勢がいいですねえ。お名前をちょうだいしておいてもいいでしょうか」
ハルはまだ怒りが収まらず、痩身の男を睨みつける。
「あいにく無礼な方々に名乗る名前は持ちあわせておりません」
「なんだと!」と土佐犬がまた右手をふり上げた。
痩身の男は、ほらほら、とまた土佐犬をなだめると、それではこちらで勝手に調べますよ、といい捨てて外にでていった。土佐犬は不満げにふんと鼻を鳴らし、ハルを一瞥して、そのあとを追って階段を駆け下りる。
ハルはふたりに向かって大きな声で、「つぎは瓶じゃなくて、そのかぼちゃ頭を叩き割るから!」と叫んだ。