一九三三年、日本統治下の台湾。ある事件により東京の雑誌社をクビになった記者・濱田ハルは、台中名家のお嬢様・百合川琴音のさそいに日本を飛び出し、台湾女性による台湾女性のための文芸誌『黒猫』編集部に転がり込んだ。記事執筆のため台中の町を駈けまわるハルが目にしたものとは――。モダンガールたちが台湾の光と影を描き出す連作小説!

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 六 前編

 早朝、夏風邪を引いた玉蘭を残して大正町の家をでて、足取りも軽くハルがカフェー黒猫の階段の下までくると、開いた編集部の窓から男の怒鳴り声がきこえた。

 階段を駆け上がり、編集部の扉を開けると、部屋のなかの空気が張り詰めている。幼いころから自ら騒動に飛びこむことが多かったハルにとって、それはむしろ懐かしいともいえる空気だった。入口の扉の脇に置いてあったラムネの空き瓶を摑むと、すばやく部屋のなかを観察する。 

 薄汚れた背広をきた見知らぬ男がふたり、百合川の机に前に立ち、ひとりが威嚇するように大きな声を上げていた。

 部屋の奥に座る劉は、いつもより青い顔をして、机から生えた樹木のように息を殺している。めずらしく波子が出勤しているが、劉の机の隣に身を隠すように立って、成りゆきを見守っている。京也は席を外しているようだ。

 百合川に摑みかかりそうな剣幕で声を上げている男は、土佐犬のような顔立ちをしている。百合川と同じくらい背は低かったが、背広を着ていても肩の筋肉が盛り上がっているのが見えた。

 大丈夫、あたしのほうが強そうだ――。

 もうひとりの痩身の男は、その後ろに立って、いまにも百合川に飛びかかりそうな土佐犬をじっと見守っている。

 土佐犬が百合川の机を叩いた。

「この記事を書いた記者はどこにいるかってきいてんだ! 日本語がわからねえのか」

 百合川はその態度をものともせず、土佐犬の目を見据える。

「少なくともあなたたちよりは本を読んでいるつもりだがね。あれは筆名で寄稿された記事だ。正当な理由もなく、記者の身元を明かすことはできないな」

 真っ赤な顔をして、土佐犬は百合川の肩に手をかけた。