追い落とされた明子の父・源高明
ところが、こうした扱いが師輔の次世代らから警戒される事態を招きます。つまり、このままでは藤原氏のリーダーの地位まで源高明らに奪われるのでは、という危機感を持ったようなのです。
その後、安和二年(969)に、冷泉天皇廃位と為平親王擁立を企む謀反の密告事件「安和の変」が起こると、高明もそれに連座する形で大宰権帥(九州地域総官、ただし名誉職)に左遷されてしまいました。
藤原師輔亡き後、宮廷で最も儀礼に詳しい(つまり政治をスムーズに行える)のは、師輔から摂関家の故実を学び、異母兄たちから皇族の故実を学んだ高明でした。
ですので、「まともにいったら勝てないので裏技で」追い落とされたのです。そして師輔の娘で、明子の母・愛宮はその巻き添えで出家した…と言いますから、この事件、じつは藤原摂関家である師輔の子供達の内紛でもあるわけです。
明子は、藤原伊尹・兼通・兼家ら師輔の子供達にとっては姪、道隆や道長からは従姉妹に当たる、摂関家色の濃厚な源氏でした。さらに愛宮の母は、元伊勢斎王だった雅子内親王。
つまり明子は母方でみても、醍醐天皇のひ孫という、極めて高い血筋ということになります。
明子は、高明失脚の後は同母弟の盛明親王、さらには兼家の娘(つまり道隆や道長の姉妹)東三条院詮子(一条天皇の母。『光る君へ』では吉田羊さんが演じた)のもとにいたようです。
これほど高貴な血筋を外部に流出させるわけにはいかず、摂関家中に留めておかなければならない、という判断だったのでしょう。いわば「籠の鳥」になったわけです。