「抵抗」は命を危険に晒す行為だった

酒に酔った父は、理性を失い欲だけに突き進む獣となる。自身の欲を満たすためなら、娘の体を使うのも厭わない。父にとって私は「守るべきもの」ではなく、「己の欲を満たすための道具」でしかなかった。

父が私の布団に入ってくるのは、いつも深酒をした日の夜だった。酒臭い息と煙草の臭いが混ざり合った口内が顔に近づくだけで、吐き気がした。でも、抵抗はしなかった。当然ながら、抵抗したことがないわけじゃない。抵抗した結果、さらなる苦痛を被った経験が重なった結果、「抵抗しない」のが一番早く終わることを学習したに過ぎない。

自分より体の小さい娘を黙らせるのに、大袈裟な暴力は必要ない。例えば、娘の口を掌で塞ぎ、隠部を強く摘んで力任せにつねる。それだけで、やられた側は恐怖と苦痛で相手に従わざるを得ない。それなのに、娘の側が成人後に被害を訴え出た場合、往々にして「抵抗したかどうか」が争点になる。「抵抗しなかった」のではなく「抵抗する気力を根こそぎ奪われた」のだと、たったそれだけのことが分からない大人の何と多いことか。「分からない」のか、「分からないことにした方が都合がいい」のか、どちらかは知らないが。

同意なんかしていない。ただの一度も、ただの一瞬たりとも、私は父との性交を望んだことなどなかった。しかし、それを証明する手立てがない。何より、すでに父の行為は時効である。今現在も私が後遺症に苦しんでいようとも、何度悪夢を見て叫ぼうとも、「一定の時間が過ぎれば」加害者は許される。いつだって被害者だけが、許されたくても許されない。

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虐待被害において、世間は必ずしも「被害者の味方」ではない。雄弁な大人と、被害に怯え口を閉ざしがちな子ども。その不均衡な力関係を読み間違え、「問題なし」と判断されれば、被害者の地獄は続く。場合によっては、事が表に出るのを恐れ、口止めを強要するあまりに折檻が酷くなることも稀ではない。SOSを出したら、100%助けてもらえる。そんな制度が確立されていない以上、被害者が安心して声を上げるのは難しい。