父の世話で苦手なことは、入れ歯の清掃
父の家に通って世話をしていた時からずっと、苦手なことが私にはある。それは入れ歯を洗うことだ。私が若い頃の辛い思い出が甦るのが嫌なのだ。
母が亡くなった後、20代の私が認知症の祖母の介護をしていた。祖母の口から入れ歯を外して洗うのは、オムツの交換よりも抵抗があった。
ピンク色の入れ歯をカパッと外すと、入れ歯という人工物なのに、生きている体の一部を手に持っているようで、身震いするほど気持ちが悪かった。若かったからなおさらそう思ったのかもしれないが、トラウマになっていて父の入れ歯を触ることがなかなかできない。
父は同じ入れ歯を二つ持っている。たぶん80代だったと思うが、父がしっかりしていた頃に理由を訊ねたことがある。
「入れ歯を外した顔は、年寄りみたいに見えるから夜も外すのが嫌なんだ。だから夜用と昼用の2つ作った」
私はびっくりして聞いた。
「だって、夜は誰にも会わないのだから、どう見えるかを気にしなくてもいいと思うけどね。外した方が楽に眠れるんじゃないの?」
「自分の美意識の問題だ」
その会話をした頃の父は、夜寝る前に入れ歯を外してゆすぎ、水と入れ歯洗浄剤が入ったケースに入れていた。それから歯磨き粉をつけて歯茎をブラッシングした後に、液体歯磨きでクチュクチュし、夜用の入れ歯を装着するのがルーティンだった。それが次第にルーズになってきている。
ホームに入ってから、入れ歯洗浄剤の減り方が少ないことに気づいた私は、不思議に思って父に言った。
「パパ、入れ歯の洗浄剤、あまり減っていないように思うよ」
「そんなことはない。朝晩取り替えている」
「ここに入居する時に新しく洗浄剤を買ってきたのは私だよ。パパのやり方だと、一日2錠の洗浄剤が必要なのに、こんなに残っているのはおかしくない?」
父は不潔だと言われると、たちまち不機嫌になる。立ち上がって洗面台の前に行って、入れ歯洗浄剤の残数を箱の中を見て確かめ私に訊ねた。
「ここに来て何日になる?」
「50日くらいだよ」
と私が答えると父は不服そうな口調で言った。
「俺は数字に強い。箱には100個入っていると書いてある。本来空になるはずなのにまだ40残っている。変だな」
ブツブツ言いながら父は入れ歯を外し、いきなりもう1個のほうに付け替えた。私は久しぶりにおもいっきり文句を言った。
「違うでしょ。まず外した方を水でゆすいでから容器に入れて。それから口の中を清掃してから、違う方を付けてよ」
父は渋々私の指示に従い、以前からのやり方で入れ歯を付け替えた。まだ父は自分でできるんだと思う一方で、95歳の父に厳しく言うのは酷のような気がする。入れ歯を触るのが苦手なのを堪えて、私は言った。
「面倒なら私がするから、言ってくれていいんだよ」
「自分でできるから放っておいてくれ」
もしかしたら父は私の苦手分野に気付いているのだろうか。