死とは日頃の修練の成果が試される場
第三に、宗教は死をこの世での生き様の総決算と捉えてきた。宗教はふつう清く正しい生涯を送るよう説いているので、したがって、死とは日頃の修練の成果が試される場だということになる。
人生を総合的に俯瞰(ふかん)して、善人であれば幸福な報いを受ける(天国に行く、好ましい生に転生する)、悪人なら苦しみを科せられる(地獄に行く、悪しき生に転生する)。報いなど気にしない境地に達することを修行の目標とすることもある。
審判のスタイルもいろいろあり、神が裁くこともあるし、来世の運命が自動的に定まることもある。死後すぐに裁かれる場合も、世界が終末を迎えてから裁かれる場合もある。
第四に、宗教の儀礼や呪術は、しばしば死や死後の運命を操作しようとしてきた。死者を供養する、死者の霊を呼んで対話するなどのパターンがある。
自らの死後をよくするための「往生の技法」も、霊薬を用いるなどして死を永遠に回避しようという思考も、洋の東西を問わず見出(みいだ)される。
実に多様だ。死と死後に関するいずれのビジョンも、人間が試行錯誤の末に創り上げていったものだ。
素朴なところから始まった神話的ビジョンは、歴史とともにバリエーションを増やし、矛盾だらけのままブレンドされたり淘汰されたりし、死の思想を複雑なものにしていった。
高度な倫理思想もあるし、比喩に満ちた民話調の訓話もあるし、完全なオカルトもある。人類のそんな営みを見守る神仏と呼ばれる超越者が本当にいるのかどうかは、また別の話だ。