葬儀の場で、故人の知人たちが言う「これであいつも喜んでいるさ」

人間の場合、この指向的構えは非常に高度になっており、「相手がこう思う」のみならず「Aが「Bがこう思う」と思っている」とか「思っているふりをしている」とか二重三重四重の意図のベクトルをたちどころに把握する。

この構えは生まれながらの強力な衝動であるので、過剰に働くことがある。たとえば一緒に暮らしていた親しい他者が死んでしまったときがそれだ。

その他者が今や生きた存在として目の前にいないというのに、記憶に焼き付いたその存在が今どう思っているか、私にどうしてほしいか、私のやることをどう思うかと考えることをすぐにはストップできない。

人類学者・認知科学者のパスカル・ボイヤーは、この点を直観的に分からせてくれるものとして、次のような例を挙げている(『神はなぜいるのか 』)。

葬儀の場で、故人の知人たちが「これであいつも喜んでいるさ」などと口々に言う。すなわち、「友達が集まってくれたので(あるいは立派な葬儀を営んでくれたので)さぞかし死者も喜んでいるだろう」というのである。

あいつが死んだことは、誰もが百パーセント分かっている。しかし、あいつが生きているかのように語ったとしても少しも変だと思われない。

不謹慎な冗談と受け止められる心配もない。感覚的にごく自然なのだ。