死体への対処と霊魂観念の儀式である「葬式」
高度に発達したホモ・サピエンスの脳は、たとえ原始人でも、人が死んだという不可逆的な生理的事実はしっかり認知できる(人間以外の動物には仲間の死の認識はないとされる)。
しかし脳で働いている別の(指向的構えをもつ)認知プログラムは、頭のどこかで、故人を生きているかのように扱っている。
つまり、脳はつねに他者の意図を読みつつ働いているので、その思考の習慣内に位置づけられていたキャラクターの一人が現実には消えてしまったとしても、そう簡単には思考習慣は更新されないのである。
むしろ故人の記憶は愛着となって消去に抵抗するだろう。さて、原初の時代の人類は、このことに大いに困惑を感じたのではあるまいか。
死体がそこに置かれたままの原始の状況では、(病気の潜在的源泉である)死体に対する生理的な嫌悪のメカニズムもまた強力に働くから、故人への思慕と死体への嫌悪との板挟みの感情は耐えがたいものになっただろう。
この状況を切り抜けるために、人間は、一方では死体を処分する(遠ざける、埋める、焼く)という合理的行動をとりつつ、他方では指向的構えがもたらす「あいつはまだ生きている」という存在感の意識に見合った仮想のキャラクター、「霊魂」を共同体のみなで作り上げる手の込んだ儀礼を行なうようになった そんなふうに推定することが可能だ。
死体への対処と霊魂観念の立ち上げのための共同の儀式が、いわゆる葬式である。