貧しい南イタリアの社会を支え続けてきた
イタリア貧乏時代に私がよく食べていたのは、先述した「アーリオ・オリオ・エ・ペペロンチーノ」以外にも、例えば「パッパ・アル・ポモドーロ」という硬くなったパンをトマトと煮込んだパン粥や、茹でたジャガイモにバターと塩コショウと安価なチーズをかけて溶かしたもの。
ミネストローネもローコストな一品だが、ある程度作り置きさえしておけば、そこにやはり硬くなったパンを入れてさらに煮込むと「リボッリータ」という立派なトスカーナ料理となる。
リゾットだってグリンピースを入れて、上にオリーブオイルを振りかけただけで春らしい一品になるし、ショートパスタもバターとパルメザンに塩コショウだけでも十分に美味しい。
イタリアンパセリを大量にみじん切りにしたものを溶き卵に入れて焼いた卵焼きもよく作っていたし、トスカーナ名物の豆と煮込んだパスタも空腹と困窮した生活の疲れを胃壁から癒やしてくれるご馳走だった。ピッツァも窯やオーブンなど焼ける装置さえあえば、シンプルな材料で経済的かつ満腹感をもたらしてくれる、貧しい南イタリアの社会を支え続けてきた大切な料理である。
ブラジルの「フェイジョアーダ」など南米のクレオール圏でよく作られている屑肉と黒豆の煮込み料理の類も、チリビーンズ系の料理も、手間は多少掛かっても食材費はそれほど掛からない上、腹持ちがするので立派な「貧乏メシ」と言えるし、インドや中東で食べ続けられている煮込み料理にナンやご飯というパターンも庶民の食文化発祥だ。
タイ北東部で空腹時に屋台で買って食べたコオロギの炒ったやつは染み入るような旨さだったし、中国の飯屋で食べた卵と白米だけのチャーハンとザーサイの付け合わせも、旅で蓄積した疲れを解してくれるような優しい旨さだった。
材料が安価だというだけではなく、生きる大変さを支えてくれる素直な優しさや、激励してくれるような力強さが感じられるところが、「貧乏メシ」の特徴といえるかもしれない。
※本稿は、『貧乏ピッツァ』(新潮社)の一部を再編集したものです。
『貧乏ピッツァ』(著:ヤマザキマリ/新潮社)
17歳でフィレンツェに留学。極貧の画学生時代に食べたピッツァの味が、今でも忘れられない――。トマト大好きイタリア人、ピッツァにおける経済格差、世界一美味しい意外な日本の飲料など、「創造の原点」という食への渇望を、シャンパンから素麺まで貴賤なく綴る。さらに世界の朝食や鍋料理、料理が苦手だった亡き母のアップルパイなど、食の記憶とともに溢れる人生のシーンを描き、「味覚の自由」を追求する至極のエッセイ。