紫式部にとっての宇治川

今、観光客で賑わう宇治は宇治川沿いのそれなりに広い所です。

しかし『源氏物語』が書かれた頃には、今のJR奈良線が南北に走っているあたりからは、宇治川と桂川と木津川が合流するあたりに広がっていた巨大な遊水池、巨椋池の東岸になっていました。

つまり当時の宇治川は、平地に出てから約2キロ、平等院から約1キロほどで巨椋池に注ぎ込むかなり短い川で、水量が多く、流れも早い川でした。

浮舟が失踪してもすぐに捜索を諦められてしまったのはそういう環境だからだと思います。

(写真:stock.adobe.com)

『源氏物語』最後の隠れて育った姫、浮舟。そして最後の地を流れる宇治川。

浮舟を通じて貴族社会を冷静に観察しようとした紫式部の目に、宇治川は現世への執着を断ち切る「三途の川」のように映っていたのかもしれません。


女たちの平安後期―紫式部から源平までの200年』(著:榎村寛之/中公新書)

平安後期、天皇を超える絶対権力者として上皇が院制をしいた。また、院を支える中級貴族、源氏や平家などの軍事貴族、乳母たちも権力を持ちはじめ、権力の乱立が起こった。そして、院に権力を分けられた巨大な存在の女院が誕生する。彼女たちの莫大な財産は源平合戦の混乱のきっかけを作り、ついに武士の世へと時代が移って行く。紫式部が『源氏物語』の中で予言し、中宮彰子が行き着いた女院権力とは? 「女人入眼の日本国(政治の決定権は女にある)」とまで言わしめた、優雅でたくましい女性たちの謎が、いま明かされる。