『源氏物語』が上流貴族の話題に
ちなみに藤原公任が「このわたりに若紫やさぶらふ」と紫式部のいるところでからかったのは敦成の五十日の賀のときで、このころにはすでに『源氏物語』が、多くの上流貴族の話題になっていたことがわかる。
そして関白藤原頼忠の長男であり、その才能で知られ、漢詩人としても強い誇りを持っていた公任が「僕も知ってるよ」と、間接的に道長におもねるようなことをしたことからも『源氏物語』がただのライトノベルではなく、彰子サロンの価値を高めるほどの「ひらがな文芸」と評価されていたこともわかるのである。
彰子は翌年、敦良親王(後朱雀天皇)を出産する。幼児死亡率の高い時代であり、2人目の男子の出産は、道長の権力をより高めたことだろう。
しかしその2年後、一条天皇は32歳で亡くなり、彰子は24歳で独り身になる。
つまり、道長の手駒として子供を産む義務から解放されたのである。