「金輪際モノは集めるものか」と

デヴィ夫人が、スカルノ大統領に見初められ、単身インドネシアに渡ったのは1959年、19歳の時。22歳で正式に妻となるも、65年秋に起きたクーデターがもとで、大統領が67年に失脚してしまう。妊娠中だった夫人は日本で出産し、幼い娘を連れてフランスに亡命した。1970年、スカルノ氏は死去するが、デヴィ夫人は、自らの才覚と人脈でパリ社交界を席巻。さらに、インドネシアに戻って事業を起こし、大成功させる。ニューヨークへの移住を経て、日本に帰国。現在のタレントとしての活躍ぶりは誰もが知るところだろう。

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私は、いつも高価なドレスや宝石を身につけて、今日はモンテカルロ、明日はニューヨーク、パリ……と社交界で遊んで暮らしているジェットセッター(自家用飛行機で世界中を飛び回る人物)のように思われがちです。「デヴィ夫人って、ラッキーな方ね」ともよく言われます。これは心外なこと。なぜなら、私の人生はシンデレラのようなものではなかったから。

私は人の3倍努力をし、3倍勉強をし、3倍働き、人の3分の1の睡眠でここまできました。ですから、もしも私がラッキーだったとしたら、それは戦争と貧しさの体験があることではないかと思うのです。

戦争中、足の悪い母に代わって、闇屋のおばさんと買い出しに行った経験、私の学費を工面するため同じクラスの女の子の母親にお金を借り、返せない屈辱に耐える母の姿……。こういった経験が現在の私を作りました。

当時は東京でも、夜空を見上げれば満天の星が輝いていました。いつかあの星の向こうまで高く舞い上がって、必ず世界で輝いてみせる──。この強烈な上昇志向が、その後の私の3倍の努力につながりました。貧しさこそ、神様のくれた最大のギフト、自身のイデオロギーとパワーの源です。

「波瀾万丈の人生」とも言われます。確かに修羅場は数え切れないほど経験しました。明日からどうやって生活すればいいの? と、途方にくれたことはそりゃあ何度もあります。命の危険にさらされたこともありますし、打ちのめされた経験は数知れません。

27の時、出産のため日本に帰国していた間に政変が起こって、私はすべてを失いました。出産したらインドネシアに戻るつもりでしたので、マイセンの食器やイギリスの銀器、絵画や宝石、美術品、骨董品……愛着のあるものは何もかも置いてきてしまいました。持ち出せたのは、つけまつげくらいですよ(笑)。

あの時、金輪際モノは集めるものかと思ったのですけど……この家を見ていただければおわかりでしょうが、それは無理だったようですね。