東宮としての居貞親王

3人はいずれも冷泉天皇の皇子であり、母は藤原兼家の子で道長の同母姉にあたる女御藤原超子。

『女たちの平安後期―紫式部から源平までの200年』(著:榎村寛之/中公新書)

そのため、すんなり長男・居貞親王が東宮になりましたが、この時、超子はすでに亡くなっており、居貞親王は兼家の邸宅だった東三条殿で育つことになります。

当時のことですから、一条天皇が満足に育つとは限らず、いわば兼家の権力維持のための保険だったともいえます。そのため、兼家は居貞に娘の綏子(やすこ)を嫁がせますが、兼家が亡くなると彼女への寵愛は薄れたようです。

兼家の跡を継いだ道隆は、正暦六年(995)に娘の原子(定子の妹)を居貞へ嫁がせます。

しかし原子は、兄の伊周が居貞の兄・花山上皇とトラブルを起こして失脚、姉の定子中宮が出家することになる長徳二年(996)の「長徳の変」の少し後、長保四年(1002)に急死しています。

結局、二人とも居貞の男子をもうけることはできませんでした。

そして道隆に代わって政権を握った道長は、一条が順調に成長したせいか、一条天皇に嫁いだ彰子を大事にして、三条と婚姻関係を作ることはありませんでした。

つまりこの時点で、冷泉系に摂関家出身の親王ができる可能性はなくなっていたのです。