帰国後、私は心遣いへのお礼状とともに、その時のホテル取材の掲載誌を送りました。高倉からは、本人の著書やインタビューの掲載誌が送られてきて、それから手紙のやりとりが始まった。

といっても他愛のない内容です。高倉が雑誌に「旅先で嘆きの天使のブロンズ像を買ったが、今は微笑みの天使を探している」と書かれていたので、私は海外の取材先から「ただ今、微笑みの天使、捜索中です」と書いた絵葉書を送る、すると簡単な返事がくる、といった具合です。

2ヵ月に一度くらいのやりとりが1年ほど続いたあと、私はテレビの取材で3週間、イランに行くことになりました。高倉は映画『ゴルゴ13』の撮影でイランに行ったことがあり、女性に制約の多いイスラム圏での取材が心配だったのでしょう。宿泊先のホテルに、私の身を案じる電話やFAXをくれるようになりました。

電話での高倉は次第に自身のプライベートなことまで話してくれ、私は「どうしてそこまで?」と思いつつ、聞き役に徹していました。

 

“高倉健という旅”への大きなチャレンジ

──帰国後も対話を重ねるなかで、やがて2人は共に暮らすようになる。それは、高倉さんから申し出があったのだろうか。

『高倉健、その愛。』小田貴月・著

高倉からの言葉はなかったです。なんでしょうか……高倉との関係は、周波数がピタリと合ったとでもいうのでしょうか。何を言わんとしているのか、私のなかにスッと入ってきました。年齢も性差も超えた、魂のレベルで共鳴したのだと。いずれにしても言葉での説明は難しいです。

「僕もいろいろな人と出会いました。でも、今は独りです」と高倉は言いました。私は、それまで仕事で海外によく行きましたが、この時、今度は「“高倉健という旅”をしてみよう」と自然に思えたのです。

顔が知られ、時に、そのことに疲れ果て、「仕事以外では目立たず過ごしたい」と切実に願う高倉の、自分は伴奏者、そして伴走者になれないだろうか、とも。

その旅には、地図もガイドブックもありませんが、やり遂げてみよう。こんな人生があっていい。私にとっては大きなチャレンジでした。